松居松翁氏逝く

松居松翁氏逝く 劇界に功績を残す

 我が劇作界の一方の重鎮松居松翁氏はかねてより糖尿病をわずらい独特の霊気療法で治療中、六月初旬足背から侵入せる化のう菌のためリンパ管炎を起こし、次いでリンパ腺、筋肉等を冒され、当時歌舞伎座で興業中の中村吉蔵氏作「伊藤博文と李鴻章」の舞台監督中病勢悪化し、江戸橋病院長中川博士主治のもとに加療中であったが、遂に本月初旬より尿毒症を併発、数日前より危篤に陥り、四日午前三時十分淀橋区落合町下落合二ノ六一七の自邸にて親戚、門下生に護られ劇界に幾多の功績を残して永眠した、行年六十四。

> 遺族はかつ子夫人(六一)と次男桃多郎氏(二四)の二人で、翁の最後の作は本年五月歌舞伎座で上演の「岩倉具視」であった。尚、告別式は仏式により十五日午後三時より赤坂区青山北町四丁目高徳寺で執行。

 松翁氏は元「松葉」と号したが本名は眞玄、宮城県塩釜町の生まれ仙台中学校を病のため中途退学丁稚奉公。五年の後上京して国民英学舎その他に学び、故イーストレーキ博士につき語学を研究し博士の家に寄寓した。その後文筆の方に転向して坪内逍遥博士に師事し「早稲田文学」の創刊当初編集に当ったが、一時新聞界にも入って活躍した。処女脚本は明治二十七年読売新聞に連載した『昇旭朝鮮太平記』五幕で、劇界に出入すること前後三十数年、その訳著脚本は百四十余種に及んでいる。外遊二回、ロンドン劇術学校に演技法を学び世界の名優多数と相知ったほどまれにみる劇通で大正十三年ペンネームを松翁と改め、老来ますますその意気を示していた。一粒種の桃多郎君は親譲りの脚本研究家で二、三の脚本も書いている。

数幕物も僅か一夜で 坪内博士談

【熱海電話】熱海双柿舎で坪内逍遥博士は語る
 松居君は一種の天才はだで小説も書けば劇も書き新聞記者としても成功するといった風で機を見るに敏な質は大院君の朝鮮事件をすぐ劇に仕組んで大当りを取ったことにもよくうかがわれます。殊に翻案物は得意でそれに筆が非常に早く一晩で数幕物を書き下ろすというような話のようなことを何の苦もなくやっていたようです。萬朝報時代にイギリスに留学した際はシエクスピアを熱心に研究され、暇さえあれば台本を持って劇場通いをされ、俳優の台詞仕草などを一々書き止めていました。私が文芸協会を組織した時、駿河で静養中の同君を煩わして講師になってもらいましたが、その時イギリス土産のシーザーやハムレット等を見せてもらいましたが、研究の熱心さには感服したものです。要するに才人でそのためにジャーナリズムに走る傾きが強く、それが作品にも響いて幾分洗練を欠くといった点があるように思いましたが、私よりも十何歳もの若さで逝かれたとは惜しいものです。

 「東京朝日新聞」昭和8年7月15日 第15面より


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