ハヤシ・チュウジロウ先生の漢字表記 2

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 『兵学校卒業者名簿』が示している日付と、レイキ伝説の日付との矛盾は、一つには記憶違いということによって説明できると思います。また、ハヤシ先生が、日米間の戦争の開始を予測したということ、そのため日本人ではなく、アメリカ人のタカタ先生をレイキの継承者に選んだという「伝説」のために、日付の調整がされたという可能性もあります。真珠湾への爆撃は1941年の12月ですね。その半年前に死去されたのと、1年半前に死去されたのとでは、かなりニュアンスが変わってしまうので、実際より1年遅くなくなられたようにしたのかも知れないという訳です。

 「3」に関連して。
 47歳というのは、当然数え年です。兵学校に入学したのは明治32年(1899年)で、ここから年齢を逆算すると、32年当時19歳であった場合、1925年には45歳、数え年で46歳になります。1年の違いはありますが、まったく異るソースから導かれる年齢が、このように殆ど一致しているということは、伝説上の「ハヤシ・チュウジロウ」と兵学校30期の「林忠次郎」が同一人物であった可能性を非常に強く示唆していると言えるでしょう。
 なお、『兵学校沿革』によれば、「林忠次郎」は「特別試験採用」となっていますので、数え年20歳で入学出来たのかもしれません。(この資料には、入学試験・卒業試験の順位までも出ています)

(なお、『日本医籍録』を調べたところ、信濃町に「ハヤシ・クリニック」という病院はありませんでした。医師法に基づく治療所ではなかったようです)

 以上をまとめると、次の点を認めることができます。

○ハヤシ・チュウジロウという音が同じ
○信濃町にいたこと
○予備役の海軍将校であったこと
○没年月日の類似
○年齢が殆ど一致すること

 結論として、ぼくたちの見出した「林忠次郎」が、求めていた「ハヤシ・チュウジロウ」先生であると言っていいと思います。

林忠次郎(1879〜1940)

 という記述が、一般化していくことを希望します。

 ついでに、別の方面からの事実です。
 昭和3年3月4日発行の『サンデー毎日』に掲載の「隻手萬病を治す療法」の中で、松居松翁は、霊気療法を「林忠次郎といふ海軍大佐で、極めてまじめな、人情ぶかい、如何にもこの仕事に生まれついた様な人」から習ったと書いています。

 上は、お読みいただいた通り、すべて一般に公開されている資料にもとづいて書かれたものです。ほとんどの資料は、わざわざ国会図書館まで出かけなくても、ちょっと充実した図書館なら、閲覧できるものであろうと思います。大変煩雑な書き方になったかもしれませんが、確認する手段を同時に提供してこそ、本当に情報を提供したことになるだろうと考えたからです。


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