霊法肇祖臼井先生功徳之碑


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 碑文の全文を以下に。
 原文そのままでは読みにくいので、手を入れてみました。格調高い原文を最大限に尊重しましたので、それでもかなり難しいかもしれません。なんとか意味は伝わるのではないかと思いますが――。
 カタカナを平仮名にし、句読点・段落区切り・インデントを追加して、読みやすくしてみました。一ヵ所送りがなを追加したところと、一ヵ所漢字をカナに変更したところがありますが、あとは原文どおりです。
 なお、参考のため現代語訳をページの末尾に載せました。


 修養練磨の実を積みて中(うち)に得る所あるを之を徳と謂(い)ひ、開導拯済(きゅうさい=救済)の道を弘めて外に施す所あるを之を功と謂ふ。功高く徳大にして始めて一大宗師たることを得べし。古来の賢哲俊偉の士か学統を垂れ宗旨を創(はじ)めし者は皆然らざるなし。臼井先生の如きも亦(また)其の人なるか。先生新たに宇宙の霊氣に本づきて心身を善くする法を肇(はじ)む。四方伝へ聞き、教を乞ひ療を願ふ者翕然(きゅうぜん)として之に帰す。嗚呼(ああ)亦盛んなるかな。
 先生、通称甕男、号は暁帆、岐阜県山県郡谷合
(たにあい)村の人。其の先(=祖先)は千葉常胤に出づ。父、諱(いみな=生前の名)は胤氏(たねうじ)、通称宇左衛門。母は河合氏。先生、慶応元年八月十五日を以て生る。幼より苦学力行儕輩(さいはい=仲間)に超ゆ。長ずるに及び欧米に航し支那に游(あそ)ぶ。既にして世に立つ事志と違い、轗軻(かんか=行き悩む)不遇、しばしば窮約(きゅうやく=困窮)に処(お)りしも、毫(ごう)も屈撓(くっとう=おそれひるむ)せず、鍛練益(ますます)至れり。
 一日、鞍馬山に登り食を断ちて苦修辛練すること二十有一日。倏
(たちま)ち一大霊氣の頭上に感じ、豁然(かつぜん)として霊氣療法を得たり。是より之を身に試み、家人に験するに功効立ちどころに見はる。先生以為へらく(おもえらく=思うには)、独り其の家人を善くするよりは広く世人に授けて共に其の慶に頼るに若(し)かずと。大正十一年四月、居を東京青山原宿に定め、学会を設け霊氣の療法を授け、治療を行ふ。遠近来り乞ふ者履(り=はきもの)戸外に満つ。
 十二年九月、大震火災起り、創傷病苦到る処
(ところ)に呻吟す。先生深く之を痛み、日に出でて市を巡り、救療すること幾何(いくばく)なるを知るべからず。其の急に赴き患を済(すく)ふこと大率(たいそつ=おおむね)此の如し。
 後、道場の狭隘なりしを以て、十四年二月市外中野に卜築
(ぼくちく=占いによって新築)す。声誉彌(あまねく)(あら)はれ、地方より招聘する者少なからず。先生、其の需に応じ、呉に之き広島に向ひ佐賀に入り尋て福山に抵(いた)る。偶疾作り、遂に客舎に歿す。時に大正十五年三月九日なり。享年六十二。
 配
(はい=配偶者)鈴木、氏名は貞子、一男一女を生む。男を不二と曰ひ、家を嗣ぐ。先生、人と為り(ひととなり)温厚恭謙にして辺幅を飾らず。躯幹豊偉、常に莞爾(かんじ)として笑を含む。其の事に当るや剛毅にして善く忍び、用意尤も深し。素(も)とより才芸多く読書を好み史伝に渉り、医書及び仏耶の経典に出入し、心理の学、神仙の方、禁呪(きんしゅう=まじない)、占筮(せんぜい=うらない)、相人(そうじん=人相見)の術に至るまで通ぜざるなし。蓋(けだ)し先生の学芸経歴は修養練磨の資料となり、修養練磨は霊法開創の管鍵(かんけん=かぎ)となりしことは彰彰乎(しょうしょうこ=あきらかだとの形容)として昭(あき)らかなり。
 顧
(おも)ふに霊法の主とする所は独り疾病を療するに止(とど)まらず、要は天賦の霊能に因(よ)りて心を正しくし身を健にして人生の福祉を享(う)けしむるに在り。故に其の人を教ふるや先づ明治天皇の遺訓を奉体し、朝夕五戒を唱へて心に念ぜしむ。
 一に曰く今日怒る勿れ、二に曰く憂ふる勿れ、三に曰く感謝せよ、四に曰く業を励め、五に曰く人に親切なれと。
 是れ実に修養の一大訓にして古聖賢の警戒
(=いましめる)する者と其の揆を一にせり。先生之を以て招福の秘法萬病の霊薬となせば、其の本領の在る所知らるべし。而(し)かも開導の道に至りては力(つと)めて卑近を旨とし、何等高遠の事なく、静坐合掌朝夕念誦の際に醇健(じゅんけん)の心を養ひ、平正の行に復せしむるに在り。是れ霊法の何人も企及し易き所以なり。
 輓近
(ばんきん=近頃)世運推移し、思想の変動寡(すくな)からず。幸に此の霊法を普及せしむるあらば、其の世道人心に裨補(ひほ=おぎなう)する者鮮少(せんしょう=些少)ならざるべし。豈(あに)(ただ)に沈痾(ちんあ=ながわずらい)痼疾(こしつ=持病)を療する益のみならんや。
 先生の門に入る者二千余人。高弟の都下に居る者は道場に会して遺業を継き、地方に在る者も亦各其の法を伝ふ。先生逝くと雖
(いえど)も、霊法は永く世に宣播(せんは=宣揚)すべし。嗚呼、先生の中(うち)に得て外に施す者豈(あ)に偉、且(かつ)大ならずや。
 頃者
(けいしゃ=近頃)門下の諸士相議し、石を豊多摩郡西方寺の墓域に建て、其の功徳を頌し、以て不朽を図らんとし文を予に属(しょく=委嘱)す。予深く先生の偉蹟に服し、諸士が師弟の誼(よしみ)に篤きを嘉(よ)みし、敢て辞せずして其の梗概を叙し、後人をして観感(かんかん=目に見、心に感じる)瞻仰(せんぎょう=仰ぎとうとぶ)(わする)る能(あた)はざらしめんことを庶幾(こいねが)ふ。

 昭和二年二月
         従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰
         海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書


 以下は原文。

修養練磨ノ実ヲ積ミテ中ニ得ル所アルヲ之ヲ徳ト謂ヒ開導拯済ノ道ヲ弘メテ外ニ施ス所アルヲ之ヲ功ト謂フ功高ク徳大ニシテ始メテ一大宗師タルコトヲ得ヘシ古来ノ賢哲俊偉ノ士カ学統ヲ垂レ宗旨ヲ創メシ者ハ皆然ラサルナシ臼井先生ノ如キモ亦其ノ人ナルカ先生新ニ宇宙ノ霊氣ニ本ツキテ心身ヲ善クスル法ヲ肇ム四方伝ヘ聞キ教ヲ乞ヒ療ヲ願フ者翕然トシテ之ニ帰ス嗚呼亦盛ンナルカナ先生通称甕男号ハ暁帆岐阜県山県郡谷合村ノ人其ノ先ハ千葉常胤ニ出ツ父諱ハ胤氏通称宇左衛門母ハ河合氏先生慶応元年八月十五日ヲ以テ生ル幼ヨリ苦学力行儕輩ニ超ユ長スルニ及ヒ欧米ニ航シ支那ニ游フ既ニシテ世ニ立ツ事志ト違ヒ轗軻不遇屡窮約ニ処リシモ毫モ屈撓セス鍛練益至レリ一日鞍馬山ニ登リ食ヲ断チテ苦修辛練スルコト二十有一日倏チ一大霊氣ノ頭上ニ感シ豁然トシテ霊氣療法ヲ得タリ是ヨリ之ヲ身ニ試ミ家人ニ験スルニ功効立チトコロニ見ハル先生以為ヘラク独リ其ノ家人ヲ善クスルヨリハ広ク世人ニ授ケテ共ニ其ノ慶ニ頼ルニ若カスト大正十一年四月居ヲ東京青山原宿ニ定メ学会ヲ設ケ霊氣ノ療法ヲ授ケ治療ヲ行フ遠近来リ乞フ者履戸外ニ満ツ十二年九月大震火災起リ創傷病苦到ル処ニ呻吟ス先生深ク之ヲ痛ミ日ニ出テテ市ヲ巡リ救療スルコト幾何ナルヲ知ルヘカラス其ノ急ニ赴キ患ヲ済フコト大率此ノ如シ後道場ノ狭隘ナリシヲ以テ十四年二月市外中野ニ卜築ス声誉彌著ハレ地方ヨリ招聘スル者少カラス先生其ノ需ニ応シ呉ニ之キ広島ニ向ヒ佐賀ニ入リ尋テ福山ニ抵ル偶疾作リ遂ニ客舎ニ歿ス時ニ大正十五年三月九日ナリ享年六十二配鈴木氏名ハ貞子一男二女ヲ生ム男ヲ不二ト曰ヒ家ヲ嗣ク先生人ト為リ温厚恭謙ニシテ辺幅ヲ飾ラス躯幹豊偉常ニ莞爾トシテ笑ヲ含ム其ノ事ニ当ルヤ剛毅ニシテ善ク忍ヒ用意尤モ深シ素トヨリ才芸多ク読書ヲ好ミ史伝ニ渉リ医書及ヒ仏耶ノ経典ニ出入シ心理ノ学神仙ノ方禁呪占筮相人ノ術ニ至ルマテ通セサルナシ蓋シ先生ノ学芸経歴ハ修養練磨ノ資料トナリ修養練磨ハ霊法開創ノ管鍵トナリシコトハ彰彰乎トシテ昭ラカナリ顧フニ霊法ノ主トスル所ハ独リ疾病ヲ療スルニ止マラス要ハ天賦ノ霊能ニ因リテ心ヲ正シクシ身ヲ健ニシテ人生ノ福祉ヲ享ケシムルニ在リ故ニ其ノ人ヲ教フルヤ先ツ明治天皇ノ遺訓ヲ奉体シ朝夕五戒ヲ唱ヘテ心ニ念セシム一ニ曰ク今日怒ル勿レ二ニ曰ク憂フル勿レ三ニ曰ク感謝セヨ四ニ曰ク業ヲ励メ五ニ曰ク人ニ親切ナレト是レ実ニ修養ノ一大訓ニシテ古聖賢ノ警戒スル者ト其ノ揆ヲ一ニセリ先生之ヲ以テ招福ノ秘法萬病ノ霊薬トナセハ其ノ本領ノ在ル所知ラルヘシ而カモ開導ノ道ニ至リテハ力メテ卑近ヲ旨トシ何等高遠ノ事ナク静坐合掌朝夕念誦ノ際ニ醇健ノ心ヲ養ヒ平正ノ行ニ復セシムルニ在リ是レ霊法ノ何人モ企及シ易キ所以ナリ輓近世運推移シ思想ノ変動寡カラス幸ニ此ノ霊法ヲ普及セシムルアラハ其ノ世道人心ニ裨補スル者鮮少ナラサルヘシ豈啻ニ沈痾痼疾ヲ療スル益ノミナランヤ先生ノ門ニ入ル者二千余人高弟ノ都下ニ居ル者ハ道場ニ会シテ遺業ヲ継キ地方ニ在ル者モ亦各其ノ法ヲ伝フ先生逝クト雖モ霊法ハ永ク世ニ宣播スヘシ嗚呼先生ノ中ニ得テ外ニ施ス者豈ニ偉且大ナラスヤ頃者門下ノ諸士相議シ石ヲ豊多摩郡西方寺ノ墓域ニ建テ其ノ功徳ヲ頌シ以テ不朽ヲ図ラントシ文ヲ予ニ属ス予深ク先生ノ偉蹟ニ服シ諸士カ師弟ノ誼ニ篤キヲ嘉ミシ敢テ辞セスシテ其ノ梗概ヲ叙シ後人ヲシテ観感瞻仰諠ル能ハサラシメンコトヲ庶幾フ
  昭和二年二月
           従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰
           海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書


 現代語訳。

 修養と練磨によって自然に身についたものを「徳」といい、指導と救済の方法を広めて実践することを「功」という。功が多く徳の大きい人こそ、初めて偉大な開祖ということができる。古来から賢人や哲人、英才などで、新たな学問を興したり宗派を開いた人は、皆そのような人であった。臼井先生も、またその一人人ということができよう。
 先生は新しく「宇宙の霊気に基づいて心身を改善する方法」を始められた。四方から噂を聞いて療法を学びたいという人や治療を受けたいと願う人たちが、一斉に集まってきた。まことに盛んなことであった。
 先生は通称を甕男、号を暁帆といい、岐阜県山県郡谷合村の出身で千葉常胤(平安末期から鎌倉初期に活躍した武将)を祖先とする。父の実名は胤氏で通称は宇左衛門、母は河合氏から嫁いでいる。先生は慶応元年八月十五白に誕生。幼時から苦学しながら努力して勉学に励み、その実力は友人たちを遥かに超えていた。
 成長の後、欧米に渡航し中国に遊学した。しかし、出世という点では実力通りにいかす、不運でしばしば生活に困窮したが少しもひるまず、ますます鍛練に励んだ。
 ある日、鞍馬山に登って食を断ち苦行を開始したが、二十一日目に至って突然、一大霊気を頭上に感じ、悟りが開けると同時に霊気療法を得た。これを自分の身体で試し、家族にも験したところ、即座に効果が現れた。先生は「この力を家族で独占するよりも、広く世の中の人に授けて喜びを共有するほうがよい」といわれ、大正十一年四月、東京青山原宿に住居を移され、学会を設立して霊気療法を公開伝授され、治療も行われた。遠近から集まって、指導や治療を求める人の列が戸外にあふれた。
 大正十二年九月、関東大震炎による火災が起こり、けが人や病人が至るところで苦しんでいた。先生はこれを深く憂慮され、毎日市中を回って治療された。これで救われた人の数はどれほどであったか、とても教えることはできない。この緊急事態に際し、苦しむ人々に愛の手を差し伸べられた先生の救済活動は、おおむねこのような状況であった。
 その後、道場が狭くなったため、十四年二月、市外の中野に新築移転した。先生の名声はいよいよ高まり、全国各地から招かれることが多くなった。その求めに応じて呉にいき、広島へ向かい、佐賀に入り、福山に至る。この旅先の宿で、はからずも病にかかり、享年六十二歳をもって逝去された。
 配偶者は鈴木氏から嫁いでおり、名前は貞子、一男二女がある。男の子を不二といい、臼井家を継いでいる。
 先生の生来の性格は温厚で慎み深く、うわべを飾らず、身体は大きくがっしりとして、常ににこやかに微笑を含んでいた。しかし、事に当たるときは明確な意志をもって、しかもよく忍耐し、極めて用意周到であった。非常に多才で、読書を好み、歴史や伝記、医学書、仏教やキりスト教典、心理学、神仙の術、呪術、易学、人相学に至るまで、すべて熟知されていた。思うに、先生の学芸経歴が修養練磨の基礎となり、修養練磨が霊気療法開眼の鍵となつたことは、だれがみても明らかである。
 顧みれば、雲気療法の主眼とするところは、単に病気を治療するだけでなく、天与の霊能によって心を正しくし身体を健康にして、人生の幸福を味わい楽しむところにある。ゆえに人に教えるに当たっては、ます明治天皇の遺訓を体得させ、朝夕五戒を唱えて心に念じさせている。
 五戒とは、一に今日怒るなかれ、二に憂うるなかれ、三に感謝せよ、四に業を励め、五に人に親切なれ。これは実に、修養のための大切な教訓であり、古来の聖賢が自らを戒めたものと同じである。先生はこれをもって「招福の秘法――万病の霊薬」とされ、教えの目的を明確に示されている。しかも指導方法は、できる限りわかりやすいことを主眼とされ、少しも難解なところはない。静座合掌して朝夕念じ唱えることに、純粋かつ健全な心が養われ、それを日常生活に活用させるところに神髄がある。これが霊気療法の、だれにでも普及しやすい理由である。
 最近は世相の移り変わりが激しく、人々の思想の変動が少なくない。幸いに、この霊気療法を普及させることができれば、世人の道徳心の乱れを救うために、少なからず助けとなるにちがいない。決して、長期疾患や持病悪癖を治療する利益だけではない。
 先生の教えを受けた門下生は、すでに二千余人に達する。その内、高弟で都下にいる者は道場に集まって遺業を継ぎ、地方にある者もまた、それぞれ霊気療法の普及に努めている。先生は逝去されたが、霊気療法は氷く世に伝え、広めなければならない。ああ、先生が自ら感得され、それを惜し気もなく人々に与えられたということは、なんという偉大なことであろうか。
 このたび、門下の諸土が集まって相談した結果、石碑を菩提寺の墓に建ててその功徳を明らかにし、後世に伝えることとなったので、碑文を私に委嘱された。私は先生の偉大な功績に深く感服し、さらに諸士が師弟の緑を大切にする心に感じ入り、あえて辞退せずにその概略を記述した。これにより、後世の人が感嘆して仰ぎみることを忘れることのないよう、心から切望するものである。

   昭和二年二月
           従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰
           海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書


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