「隻手萬病を治する療法 3」


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 例えば、ここに心臓のひどく悪い男がある。これを医学的に見ても八十五六位しか脈搏が打っていないとする、それでも彼は、その胸が苦しくなるのを感ずる、医者も心臓の狭窄症だという−−この場合、わたしが彼の心臓に手をかけても、わたしの掌は痛みを感じない。そこで胃腸と腎臓との部分に手をかけて見る、わたしの掌は非常に痛む、すなわちわたしはその部分を癒すことに努力する。すると間もなく心臓の圧迫も取れてしまう。新派俳優の泰斗、河合武雄の場合が丁度それであったのである。

 そこで疑問が起きる。
 −−なぜそうなるのか、なぜ掌が痛むのか、それが問題だ。なぜ医者の手放したものが癒るのか、それが不思議といえば不思議だ。ただ手を置きさえすればそれで癒るものは癒るのだから、そこが霊的に解釈されるゆえんかも知れぬ。しかし、わたしの考える所では、わたしの手には、林氏の伝授を受けた刹那から、自分の全体を通じて異常な血液の活躍が促されて来たらしい。しかして、末梢神経の指端において、これが最も急激に、微妙に、素晴らしい活躍をするのかも知れぬ。さらば、林氏の伝授が、わたしにこの力を与えてくれたのであるか−−それはチョッと公表しがたい。
  兎に角、そういう血液の活動している指端が、患者の病所に置かれた時、わたしの血液の波動が患者の血液の波動を促す、つまり、ブラッド・カレントが一つになる、波長が一つになるゆえであるかも知れぬ。それで患者の充血、鬱血、或いは貧血したために起こった病患が、段々にノーマルな状態になって、病気は自然に癒って来るという理屈であると信ずる。この意味において、輸血療法、淋疾のカテーテル療法、その他種々な医術的療法も相一致するものがあると思う。
 もし、仮に治者被治者のブラッド・カレントが合致するという解釈が、この事実を説明し得たとしても、何人といえども、皮膚を隔てて果して左様なことが出来るかどうか、この疑問を抱くに相違ない。しかし、梅毒のために鼻柱の落ちた人も、今日の進歩した医学によって造鼻術が行われる、膝の肉や皮やを取ってきてそれを欠けた鼻の上に植えつければよいのだ。ところがその膝の肉は少なくとも一時間は死んだものだ。それが自分の、或いは他人の鼻の上で癒着して、血液も通うし、神経も働くことになる。これから考えれば、皮膚の隔たり位は何でもあるまいではないか。

 この話をすると、世間の半可通は直に「動物電気だろう」などという。しかし、「電気とは何ぞや」の定義すら、今日の科学では未だ決定されていない。あの大エヂソン、大マルコニーのプラクチスは驚くべきものがあるが、電気の本質的説明は出来ていない−−だから、この問題はそう簡単には断定が出来ない。が、わたしのぼんやりした感じからいうなら、或いはエーテルの作用ではないかと思うけれど、エーテルの研究はなお出来ていない今日だ、無学なわたしなどが、こんなことをいったら他人様はお笑いになるだろう。ただわたしがこの療法を人にアプライする時に、大体においてエーテルの法則に従って説明するのが一番近い様に思うのだ。といってわたしは、微分積分も知らぬ人間だから、はっきりしたことはとても言い得ない。いずれ、これから高等数学でも習って研究的に実験してゆくうちに、或いは説明の出来る時機が到来するかも知れぬが、兎に角今のところでは、応用の方面で偉大な効果のあることだけで、まあ、満足しているより外はない。

 わたしも、初めはこの療法を鼻先で笑って見たものである。
 或る日、わたしは友人に向って「どうも身体が快くないからゴルフでもやろうと思うがどうか」といったものだ、友人は「それならゴルフよりこんな良いものがある」といって、この療法の存在を教えてくれた。その友人の父はかつては日本銀行の総裁であった人、その友もまた英国に留学して来て今は立派な実業家だ。こんな人から勧められたものだから、わたしもその気になって、妻と子供と三人で直に入門した、だが、真実をいえばまだその時ですら信じてはいなかったものだ。ところが間もなく、西條八十、宮島新三郎両君等と講演旅行に出かけ、その旅先で、鯉こくを食ってその骨を喉に立てて、ぎくしゃく泣いてる男を見た。わたしは何の気なしに療法を試みたところ、不思議にも痛みが取れた。この時、わたしは初めて療法の「こつ」を悟った。これ以来わたしは、もう鼻先で笑えなくなったのである。

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