ハヤシ・チュウジロウ先生の漢字表記


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 欧米の資料では、ハヤシ・チュウジロウ先生に関しては、次のような記載が見られます。互いに矛盾するところもありますが、そのまま列記してみることにしましょう。

1.ハヤシ・チュウジロウ先生は、海軍の予備役将校であった
2.commanderという記述があるので、おそらく、少佐ないし中佐であった
3.1925年に47歳で、最終的な伝授(神秘伝)を受けた
4.信濃町で「ハヤシ・クリニック」を開いていた
5.1941年5月10日、なくなられた
6.1940年5月10日(火曜日)、なくなられた

 以上のうちの大半は、現在入手可能なレイキ関係の(日本語の)文献で確かめることが出来ます。具体的な文献名については、引っぱり出して来るのが面倒なので、今手元にあるものをあげておきます。特に3と5については、
   「Essential Reiki」 by Dian stein 11ページ
 同様に6については、
   「History of Reiki」 by David Herron
    at
http://www.crl.com/~davidh/reiki/の中
「Dr. Hayashi passed on Tuesday, May 10, 1940」の記述にもとづきます。

 さて、ぼくは、現在なお「チュウジロウ・ハヤシ(?〜1941)」などという紹介のされ方がまかり通っているのを不思議に思ったものでした。その気にさえなれば、最低限でも漢字表記ぐらいのことはすぐに分かるのではないかと考えたからです。

 取っ掛りは、「海軍」です。
 シュリーマンにならって、伝説をそのまま信じ込んだところから出発する−−というよりは、もう少し確実そうです。臼井先生が赴かれたのは「呉」や「広島」「福山」「佐賀」などで、ここからも「海軍」が強く連想されます。
 江口俊博氏の著書から、霊気療法学会の後継者たる会長が海軍少将であったことが分かりました。続く「会長」も海軍少将です。「海軍」を調べれば、「チュウジロウ・ハヤシ」の実体に迫ることが出来るだろうとは、もうあまりにも当然の筋道です。

 そこで、ぼくが眼を通した資料は、以下のとおりです。

A.『海軍兵学校出身者(生徒)名簿』
    昭和53年12月刊 昭和62年10月20日三版
      海軍兵学校出身者(生徒)名簿作成委員会刊
B.『海軍兵学校沿革』
    昭和43年8月15日刊  原書房
C.『帝国陸海軍将官同相当官名簿』
    平成4年1月1日刊  朝日新聞東京本社朝日出版サービス
D.『陸海軍将官人事総覧(海軍篇)』
    昭和56年9月1日発行  芙蓉書房
E.『日本医籍録』
    昭和11年・13年・14年
F.『明治大正東京人名録 下巻』
    昭和64年10月5日刊 (株)日本図書センター刊

 ぼくの発見した資料には、次のような事実が示されていました。

○海軍兵学校・第30期(明治32年12月入学・明治35年12月卒業)に
 「林忠次郎 昭和15年5月11日死去 大佐 東信濃町28」の記載がある
 (A『海軍兵学校出身者(生徒)名簿』による)
○兵学校の規定によると、入学者は満15歳から満19歳までの年齢である
 (B『海軍兵学校沿革』による)
○昭和11年の時点で、「在郷海軍大佐」の「林忠次郎」が当時の「四谷区東信濃町28」に在住している
 (F『東京人名録』による)


 大正末期から昭和初期にかけては、軍縮が進められた時代でした。例えば、先にあげた「臼井霊気療法学会」二代目会長の武富咸一氏は、12月に昇格して少将になったあと、翌年の2月に予備役になっています(他にも同様の例は多数)。この例などから、ハヤシ先生が「大佐」になったのは予備役になる直前であったことが推測できます。上の「2」と「海軍大佐」との矛盾は、このことによって説明できるのではないでしょうか。つまり、肩書きは「大佐」であっても、本人の意識としては「中佐」であったと考えられるわけです。
 もちろん、可能性は他にいくつも考えられれます。ある種の「含羞」が、captainではなくcommanderという言葉を採用させた、或いは、タカタ先生の単なる記憶違いであった、等々。

 「6」は、事実に反しています。1940年5月10日は、火曜日ではなく金曜日です。普通、日付を覚えていられても、曜日まで記憶しているというのは、なかなか困難なものです。これは、いわば確信を持って間違えているわけですね。(それにしても、ちょっと調べればすぐに事実と相違していることが分かるのに、よくもまあ、イケシャアシャアとこんなことを平気で書けたものだと感心します)

 『兵学校卒業者名簿』が示している日付と、レイキ伝説の日付との矛盾は、一つには記憶違いということによって説明できると思います。また、ハヤシ先生が、日米間の戦争の開始を予測したということ、そのため日本人ではなく、アメリカ人のタカタ先生をレイキの継承者に選んだという「伝説」のために、日付の調整がされたという可能性もあります。真珠湾への爆撃は1941年の12月ですね。その半年前に死去されたのと、1年半前に死去されたのとでは、かなりニュアンスが変わってしまうので、実際より1年遅くなくなられたようにしたのかも知れないという訳です。

 「3」に関連して。
 47歳というのは、当然数え年です。兵学校に入学したのは明治32年(1899年)で、ここから年齢を逆算すると、32年当時19歳であった場合、1925年には45歳、数え年で46歳になります。1年の違いはありますが、まったく異るソースから導かれる年齢が、このように殆ど一致しているということは、伝説上の「ハヤシ・チュウジロウ」と兵学校30期の「林忠次郎」が同一人物であった可能性を非常に強く示唆していると言えるでしょう。
 なお、『兵学校沿革』によれば、「林忠次郎」は「特別試験採用」となっていますので、数え年20歳で入学出来たのかもしれません。(この資料には、入学試験・卒業試験の順位までも出ています)

(なお、『日本医籍録』を調べたところ、信濃町に「ハヤシ・クリニック」という病院はありませんでした。医師法に基づく治療所ではなかったようです)

 以上をまとめると、次の点を認めることができます。

○ハヤシ・チュウジロウという音が同じ
○信濃町にいたこと
○予備役の海軍将校であったこと
○没年月日の類似
○年齢が殆ど一致すること

 結論として、ぼくたちの見出した「林忠次郎」が、求めていた「ハヤシ・チュウジロウ」先生であると言っていいと思います。

林忠次郎(1879〜1940)

 という記述が、一般化していくことを希望します。

 ついでに、別の方面からの事実です。
 昭和3年3月4日発行の『サンデー毎日』に掲載の「隻手萬病を治す療法」の中で、松居松翁は、霊気療法を「林忠次郎といふ海軍大佐で、極めてまじめな、人情ぶかい、如何にもこの仕事に生まれついた様な人」から習ったと書いています。

 上は、お読みいただいた通り、すべて一般に公開されている資料にもとづいて書かれたものです。ほとんどの資料は、わざわざ国会図書館まで出かけなくても、ちょっと充実した図書館なら、閲覧できるものであろうと思います。大変煩雑な書き方になったかもしれませんが、確認する手段を同時に提供してこそ、本当に情報を提供したことになるだろうと考えたからです。


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